時間が経つにつれてパラパラと人が集まり、 夜になって都庁が避難所に指定されると一気に増え、 譲り合わなければ座れないほどになった。 そばにいたご婦人達には毛布が行き渡らなかったので、 一枚お譲りしたら「駅で配っていたからたくさんもらったの」と、 お惣菜を分けてくれた。 新宿駅周辺ではお弁当やお惣菜を配っていたようだった。 夜8時半過ぎに大江戸線が動き出しIちゃん親子が帰るとようやく 、吉ちゃんはぐったりした。 それからしばらくして京王線も動き出したことをK君が教えてくれ た。当時はまだスマホを持っている人は少なかった。 たまたまK君が持っていて色々と調べてくれて本当に助かった。 吉ちゃんが寝ていたので少し様子を見て、 11時半頃にギャラリーを出た。 京王線新宿駅は大混雑していたが、 改札に入るのに入場規制されていたので、 入ってからはすんなり乗車できた。K君が同じ沿線だったので、 吉ちゃんを気遣いながら一緒に歩いてくれて、 不安なく電車に乗れた。こんなに夜遅く、 新宿から電車に乗る子どもは吉ちゃんの他には見当たらなかった。 電車はノロノロ運転で、家に着いたのは午前1時半頃だった。 タンスの扉が開いていたり、 ピアノの上に置いてあった花瓶が落ちて粉々になっていたけれど、 大した被害はなかった。主人は朝7時過ぎに帰宅した。
テレビを見て、 東北地方が津波で大変なことになっていると知った。 東京が一番揺れたと思っていて、 ギャラリーでニュース番組のインタビューに浮かれて答えていた自 分が酷く恥ずかしくなった。
その数日後、原発事故が起き東京への影響が心配になり、 すぐに吉ちゃんを一ヶ月ほど徳島の実家に預けようと決まった。 近々つわりが始まり家事がままならなくなるという理由もあったが 、それは主人と二人だけの秘密にしておいた。 徳島まで日帰りで吉ちゃんを飛行機で送った翌日は健診日だった。 順調と言われたがその日の夜、不正出血して流産した。 この時期の流産は母親側の原因ではないと分かっていたので、 何かを後悔する気持ちはなかった。けれど、 何の苦労もせずに吉ちゃんを出産した後、二度の流産を経て、 三度目の妊娠だった。それだけに、とてつもない絶望感だった。 震災で日本中が大きな悲しみを共有している最中、 私は自分のことで精一杯だった。 そういえば地震の当日も自分の体調や吉ちゃんのことばかり気にし ていたけれど、そんな私を周りのみんなは親切に気遣ってくれた。
四年が経ち、展示メンバーには入れ替わりもあったけど、 同じように優しい雰囲気に包まれている。あの震災の時、 私はギャラリーでみんなと一緒いられて本当に良かったと、 改めて感じた。先月の展覧会で搬出作業が終わり、 みんなで輪になって終わりの挨拶をしている時、 うろちょろ歩き回る二歳の八ちゃんと、 大人に交じって一人前に挨拶する八歳の吉ちゃんと親子三人で会場にい て、最後に笑ってみんなと「お疲れ様でした」と言えたことが、 とっても幸せに思えた。
ここまで書いたら、 震災の翌年も展示に参加していたことを思い出した。 その時は八ちゃんがお腹にいて、 つわりが一番辛い時期だったので搬入は主人に代わりに行ってもら い、受付当番も免除してもらい、幽霊部員みたいな参加の仕方だった。あの時は1年前を振り返る余裕もなかったのかな?
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